あるモンテッソーリ協会の理事の方がベトナムの奥地にモンテッソーリを教えにいったときのお話を聞きました。
その方が言うにはその地域では感覚教具がいらないそうです。
正確に言うと必要ないという事でした。
つまり、この地方の人間は日常的に感覚をよく使う生活をしているため、あえて感覚教具を使わなくてももう十分感覚が鋭敏なのだそうです。
モンテッソーリは約120年前のイタリアですでに感覚教具を使う重要性を説いていたにもかかわらず、現代のある地域ではいまだに必要ないほど感覚機能が優れた人達が存在することに驚いたそうです。
電気もない、自給自足の物々交換の世界ですから、ありえなくはないのでしょうが。
現代では特殊な生活をしているとは思いますが、ある意味うらやましくも感じます。
多分この地域だけではなく私が知らないだけで世界にはこういう所がまだまだあるのではないでしょうか。
反対に現代の生活がいかに感覚を鈍らせているかも考えてしまいます。
利便性の追求の結果による因果応報なのでしょうか。
生活形式がよくなることに異を唱えているのではありません。大きなものを手に入れることによって、喪失するものの大きさにも目を向け事は必要だはないのかという意味です。
パソコン・スマホの普及により、世界が身近になり、四角い画面の中で体験できることも多くなりましたが、逆にそこに行って肌で感じる体験や感動なども減っているかもしれませんね。
特にこのご時世ですので不安もあります。
子どもたちにはより実感できる体験が必要なのではないでしょうか。